バッハと武満とP.ゼルキン |
P.ゼルキンは、祖父のアドルフ・ブッシュ、父はルドルフ・ゼルキンとクラシック好きなら知らない人はいないと言うほどの音楽一家に生を受けているピアニスト。父ルドルフは20世紀を代表する大ピアニストで、それはもう素晴らしく繊細で可愛くて骨のある演奏をする音楽家だった。祖父のブッシュはバイオリニストでその弦楽四重奏団の演奏は歴史に残る名演奏なのだ。前置きはこのくらいにして、
ピーターのリサイタルには初めて行った。舞台に出てきた瞬間から彼の世界に変わった。長身の紳士はまさに芸術家という以外の何者でもなかった。芸術以外のことには全く興味もないであろうと想像できる音楽へのひたむきな真摯な姿勢とその探究心。本物とはこういう人を指して言うのだと思った。
静かにピアノの前に座ると、瞑想するかのように、これから弾く曲へ精神を集中させている。決して慌てない。バッハの前奏曲で始まったのだが、彼の精神の強さというのか音楽へのひたむきさは、会場をも包み込み、雑音ひとつも出したくないほどの心地よい緊張感とともに、生の音となって芸術作品をかたち創っていった。
今回のプログラムは、バッハと武満。この二人へのオマージュとでも言えるプログラムは、二百年という時間を超越して、何の違和感もなく心に響くものとなった。
日本人でも武満徹の作品に馴染みのない人も多いと思うが、非常に思索的、内省的でいて実験的な要素もある、けれど心に染み入るように響いてくる作品が多いと思う。
ボクもかつてアメリカへでかけた時に、お世話になった方の車で初めて聞いたのだった。「この曲は、誰の?」「Takemitsu」「えっ、武満徹?」そんな感じで聞いたのを思い出す。まことに日本人として恥ずかしいと思った。国籍を超えて彼の音楽を信奉する人は多い。東洋的でもあるけれど、ジャンル分けしたくないほどの普遍性を感じる。
ピーターは実際にも武満と交流があったようで、今回弾いた作品の中には彼の委嘱作品も入っている。武満はバッハを敬愛していたという。その二人にピーターは敬意を表してオマージュとして捧げたのが今回のプログラムではなかったかと思った。
ボクはピアノという楽器が大好きであるが、この一台の楽器ではかり知れない大きな世界を生み出せる素晴らしさをいつも感動とともに味わう。
演奏家の質が高ければ、その世界は心に響き、ボクの中で新たな世界を創り、様々なことを考え、豊かな気持ちと生きる歓びを与えてくれる。
ボクは難しいことは分らなくてもいいと思っている。
音楽の学者や評論家の言葉はボクにとってどうでもいいことなのだ。
響くかどうか、音楽というものが自分の心に響くかどうか。
それが一番ボクにとって大切なことなのだ。
会場には指揮者の小澤征爾やピアニスト内田光子の姿もあった。あの超売れっ子の二人が顔を出すくらい、ピーター・ゼルキンはまさに一目置かれる素晴らしい芸術家なんだと改めて納得して帰路についた。
とにかく静かだった。まるで瞑想していたかのような時間を過ごした。
感動、という言葉ではなく、何かが心に滲み込んだ、という感じ。
会場を出て、先ずしたことは、空を見上げて深呼吸することだった。
不思議な音楽会。けれど、ボクの心に響いたことは間違いない。
今回のプログラム(東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ・メモリアルにて、9/15)
J.S.バッハ コラール前奏曲「ただ愛する神の摂理にまかす者」BWV691
(1720)
武満 徹 遮られない休息(1952/1959) 1,2,3
ピアノ・ディスタンス(1961)
フォー・アウェイ(1973)
閉じた眼 -瀧口修造の追憶に-(1979)
雨の樹 素描(1982)
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リタニ(1950/1989改作) |,‖
閉じた眼‖(1988)
雨の樹 素描‖ -オリヴィエ・メシアンの追憶に-(1992)
J.S.バッハ 半音階的幻想曲とフーガニ短調 BWV903 (1714-1723)